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絵画 アーカイブ

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ジャック=ルイ・ダヴィッド

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ジャック=ルイ・ダヴィッドは、フランスの新古典主義の画家。
18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。

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ジャック=ルイ・ダヴィッドの人生

1748年、パリに商人の子として生まれた。
彼が9歳の時、父親は決闘で亡くなっているが、この事件は少年だったダヴィッドに少なからぬ影響を与えたものと推測される。

ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェはダヴィッドの親戚であった。
新古典主義は西洋文化の源流であるギリシャ・ローマへの復帰運動であり、柔和で享楽的なロココ美術への反動という意味合いも強かっただけに、ロココ絵画の大家ブーシェがダヴィッドの身内であったということは興味深い。

当時50歳代だったブーシェは弟子を取っておらず、彼の紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアンという画家にダヴィッドは師事する。

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ダヴィッドとローマ賞

長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年『アンティオコスとストラトニケ』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得た。

これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては遅いデビューである。
ローマ賞受賞者は、国費でイタリア留学ができる制度になっており、ダヴィッドも翌1775年よりイタリアへ留学した。

同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。

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ダヴィッドと革命

ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭する。
こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていく。

ルイ16世注文の『ホラティウス兄弟の誓い』は最初の国王注文作であり、「新古典派宣言」とも見なされる記念碑的作品である。

これから決死の戦いに望もうとする古代ローマの戦士たちを描いたこの作品は、ギリシャ・ローマの古典への復帰、という芸術上の主張とともに、来るべき革命と市民社会を予見した政治的メッセージとも受け取れる。

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ダヴィッド、投獄される

1789年、フランス革命が勃発するが、このころのダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与していた。

バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっており、1792年には国民議会議員にもなっている。
1793年には革命家マラーの死を描いた『マラーの死』を制作している。

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1794年にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、一時期国民公会議長もつとめている。ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、一時投獄された。
この時、自画像と唯一の風景画を残している。

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ダヴィットの死

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1800年にはナポレオンをも虜にしていたレカミエ夫人に、愛人への贈り物として肖像画を依頼され、『レカミエ夫人』を作りましたが、本人に気に入られず、未完成に終わってしまったそうです・・・。
頼んだのに気に入らないからって・・失礼な人ですね。

その後、ナポレオンの庇護を受けて復活し、1804年にはナポレオンの首席画家に任命されているんですよ。凄い人なんですよ。

縦6.1メートル、横9.3メートルの大作『ナポレオンの戴冠式』は1806~1807年に描かれたもの。
ナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたまた失脚し、1816年にのブリュッセルに亡命し、9年後の1825年に静かに息を引き取りました。

ルイ16世の処刑に賛成票を投じた事で、ダヴィットの遺体はフランスへの帰国を許されなかったのですが、心臓が現在ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。
まあ、亡くなった今ではそんなに重要な事じゃないですよね。

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アングルの生まれ

フランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに装飾美術家の子として生まれる。
父親は美術家というよりは作人で、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く扱っていた。

アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もあった。
実際、ニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を作り、彼のスケッチを残している。

父親や家族が美術に触れると子供もそれを受け継ぐんですね^^

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アングル12歳の時

アングルは12歳の時、トゥールーズのアカデミーに入学。
1797年パリに出て、新古典派の先生、ダヴィッドのアトリエに入る。

1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若い画家たちの登竜門であったローマ賞を受賞した。

ローマ賞受賞者には、国費でのイタリア留学が許可されたが、アングルの場合は、当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延ばされ、1806年にようやくイタリアへ行っている。
やっとイタリアへ留学です。

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アングルの活動

長~いイタリア滞在の後、1824年、フランスに帰りますよ~。

その次の年にレジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推薦されています。
10年ほどの母国での活動をして、1834年またまたイタリアへ行きます!

ローマでは、フランス・アカデミーの院長を務めました。活動的ですね~。
そして、1841年またパリへ戻ります。

この頃のアングルは祖国フランスでもかなりの巨匠と認められ、1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催されました。もう、有名人ですね^^

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ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル

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ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルは、フランスの画家です。
19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗して、ダヴィッドから新古典主義を引き継ぎ、古典主義的な絵画の牙城を守りました!

ラファエロに対するとても高い評価、入念に構成された緊密な諧調、形体の幾何学的解釈など、師であったギョーム・ジョセフ・ロックの影響が色濃いですね~。